昔は「奥友村」、そして村の中に「小友町」があった

2020/04/13

我が郷土は、遠野十二郷を統治した阿曽沼時代には下六郷に属し奥友郷と呼ばれていた。また、寛永4年(1627)3月に遠野南部の殿様が八戸から遠野に入部する際、南部藩主の利直が八戸弥六郎(直義)にあてた「拾戸遠野村付之目録」の中には、五百九拾壱石八斗三升四合(注;村の生産高)奥友村とある。
 一方、遠野市史の年表では、享保2年(1717)小友村と長野村が合併し、村肝煎に宮崎万吉(注:奥友家初代)があたるとあり、奥友家の古文書でも享保4年(1719)から小友村が出てくる。
 このことから、昔は、小さな村々の集合体として奥友郷と呼ばれ、村の統治が確立した江戸時代からは奥友村。そして、小友村として歴史を重ねてきた。
 

このように書くと、村の名前を変えたようにも思われるが江戸時代には口述を文字にすることが常であり「奥友」や「小友」(どちらも「おとも」)の字があてられたとされている。従って我が郷土は村の名前を変えてはいないのである。例えば、山谷観音は色々な古文書等において山屋観音とも記されてる。
 また、村の中に町があったと云うお話しである。盛岡藩時代に遠野郷には、六町があった。横田村(現在の遠野市街)に六日町、新町、一日町、穀町、裏町があり、そして小友村には小友町(おともまち)があった。元禄時代の山谷観音奉納絵馬の中にも小友町万吉の絵馬があることからもうなずける。
 

村には肝煎を置き、町には同じ役目をする「検断」という制度を設け、村とは別に独自の自治をとっていた。
 江戸時代に小友村の中に小友町があったのである。現在の市町村の位置づけから考えると村の中に町があったことなどは実に面白い。この小友町(現在の16地割を中心とした地区)は、明治になるまで小友村の中に存在していたのである。

今回は社会教育班の奧友さんが寄稿した原稿を掲載しました

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